こんにちは!kappa(@kappa10.01)です。
写真を撮っていると、ピントの合った被写体の奥で、光や色がやわらかく溶けていく背景に惹かれる瞬間があると思います。ボケの量や質には好みの差がありますが、ボケを心地よく感じる感覚は、多くの人にある程度共通しているのではないでしょうか。
この記事では、ボケがどのような仕組みで生まれるのかを解説しつつ、なぜ人はボケを美しいと感じるのかを考えていこうと思います。
ボケが生まれる仕組み
ピントとボケの関係:被写界深度と錯乱円
仕組みを考えるため、点光源があるとします。点光源から出た光は、あらゆる方向に広がり、レンズを通過して収束していきます。点光源がピントが合う距離にあれば、この光はセンサー面上のちょうど一点に集まります。
問題はピントが合っている距離からずれた点です。ピントの位置より手前にある点の場合、光が一点に集まる位置はセンサー面よりも奥になるため、光がセンサー面に届いた時点ではまだ収束しきっておらず、広がったまま記録されます。逆に、ピントの位置より奥にある点の場合は、光は一度センサー面より手前で収束したあと、再び広がりながらセンサー面に届きます。手前にずれても奥にずれても、結果として起きることは同じで、センサー面上には一点ではなく、ある程度の広がりを持った円が記録されます。この円を錯乱円と呼びます。

この錯乱円の直径を左右する要素は二つあります。一つはピントの合っている距離からのずれの大きさで、ずれが大きいほど、光が一点に集まる位置とセンサー面との距離が開くため、円は大きくなります。もう一つは絞りの開口の大きさで、開口が大きいほど光の通り道自体が太くなるため、収束・拡散する光の範囲が広がり、同じずれの量でも円はより大きくなります。
ボケの形を決める要素
ここまでで、どのようにボケの円がどのように生まれるのかという仕組みを解説してきました。しかし実際の写真を見ると、ボケは単純な円ではなく、多角形になっていたり、画面の端では歪んだ形になっていたり、円の中に縞模様が見えたりすることがあります。これは、錯乱円の大きさだけでなく、その円の輪郭がどう決まるかという別の仕組みが関わっているためです。
錯乱円の輪郭を決めているのは、光が通過する絞りの開口そのものの形です。レンズを開放(絞りを最も開いた状態)にしている場合、開口の形はレンズ設計上の物理的な開口部そのものの形になり、多くのレンズでは円形に近い形状をしています。しかし絞りを開放より閉じていくと、複数の羽根が重なり合って開口を狭めていくため、開口の輪郭は羽根の枚数分の角を持つ多角形に近づいていきます。点光源がボケて円状に写るとき、その円の輪郭はこの開口の形をそのまま反映するので、羽根の枚数が多い、あるいは羽根の縁が曲線状に加工されているレンズほど、絞りを閉じても円に近い形状を保ちやすくなります。逆に羽根の枚数が少なく縁が直線的なレンズでは、絞りを閉じたときに開口が多角形として写り、ボケの中にもその角が現れます。
開口の形が絞り羽根の設計によって変わる一方で、同じレンズ、同じ絞り値であっても、画面のどの位置にボケがあるかによって形が変わることがあります。画面の中心付近では、絞りの開口はほぼ設計通りの形で光を取り込みますが、画面の周辺部では、レンズの前後にあるレンズ群の枠(鏡筒)が、開口の一部を斜めから覆い隠すように遮ることがあります。これを口径食と呼びます。

口径食が起きている位置にある点光源のボケは、開口の一部が欠けた形、つまりレモン型や猫の目に似た形状として写ります。この現象は画面の四隅に近づくほど強くなり、絞りを閉じていくと前玉・後玉それぞれの枠による遮りが減っていくため目立ちにくくなります。
絞り羽根の形状や口径食が、開口そのものの見た目に由来する変形だとすると、もう一つ別の要因として、レンズ表面のごく微細な凹凸に由来する模様があります。近年の多くのレンズには、収差を補正するために非球面レンズが使われていますが、非球面レンズは研磨やモールド成形といった製造工程の特性上、レンズ表面にごく微細な凹凸のムラが残ることがあります。このムラは肉眼でレンズを見ても分からないほど微小ですが、点光源のような強い光がレンズを通過すると、表面のわずかな凹凸によって光の屈折の仕方に細かな差が生じ、ボケた円の中に同心円状の縞模様として現れることがあります。これがいわゆる玉ねぎボケと呼ばれる現象です。
ボケの量を決める要素
錯乱円の大きさは絞りの開口とピントのずれで決まると述べましたが、実際に撮影の場でボケの強さをコントロールする際には、絞り値だけでなく、焦点距離、被写体と背景の距離、センサーサイズという要素も関わってきます。これらは独立した4つの要素というより、互いに関係し合いながらボケの量を決めています。
まずは絞りの開口です。開口が大きいほど錯乱円は大きくなります。開口の大きさはF値で表され、F値が小さいほど開口は大きくなります。F値というのはレンズの焦点距離と開口の物理的な直径の比で決まる相対的な値です。つまり、開口の物理的な直径は、焦点距離をF値で割った値にほぼ相当します。そのため同じF値のレンズを比較しても、焦点距離が長いレンズほど開口の物理的な直径は大きくなり、その分だけ錯乱円も大きくなります。さらに焦点距離が長いレンズは背景を大きく写す、つまり拡大して写す性質を持つため、この拡大効果によってもボケの見え方はいっそう強調されます。
焦点距離と並んで効いてくるのが、被写体と背景の距離です。錯乱円の直径はピントが合っている面からのずれが大きいほど大きくなるという関係を冒頭で説明しましたが、これはつまり、被写体と背景が離れているほど背景は強くボケ、被写体のすぐ後ろに背景がある場合はずれが小さいためボケも弱くなる、ということになります。同様に、被写体とカメラの距離が近いほど被写界深度は浅くなるため、背景はボケやすくなります。
最後にセンサーサイズですが、これは焦点距離を介して間接的にボケの量に影響します。センサーサイズが大きくなると、同じ画角を得るために必要な焦点距離が長くなります。焦点距離が長くなれば、先ほど述べた通り開口の物理的な直径も大きくなるため、結果として同じ画角・同じF値で撮影した場合でも、センサーサイズが大きいカメラの方がボケは強くなります。
このように、絞り値、焦点距離、距離、センサーサイズという4つの要素は、それぞれ独立に効いているというより、開口の物理的な大きさとピントのずれという二つの原理を経由してつながっています。
なぜボケは美しく見えるのか:4つの視点から考える
ここまでのボケが発生する仕組みはあくまで光学的な現象・事実であり、「なぜそれを美しいと感じるか」への答えにはなっていません。ここからなぜ人はボケを美しいと感じるのかを考察していこうと思います。
仮説①:情報量の削減が、主題への到達を早くする
ボケによる情報量の削減はもっとも単純でわかりやすく、大きな部分を占める要素だと思います。
写真を見るとき、人はまず画面のどこに注目すべきかを判断しています。何が重要な情報で、何がいらない情報なのか。画面全体に細かい情報が均等に存在していると、この判断に時間がかかり、視線が画面をさまよう状態になりやすくなります。

ボケによって背景の情報量が削減されると、細かい情報を持つ領域はピントの合った主題部分に限定されるため、視線を向けるべき場所が視覚的に明確になります。結果として、写真を見た瞬間に主題へたどり着くまでの負荷が下がることになります。この、見るべき場所がすぐに分かるという体験のしやすさが心地よさとして感じられている可能性があります。ただこの心地よさはボケそのものの美しさというよりも、ボケによる写真・被写体への効果という方が正しいかもしれません。
仮説②:ボケを見ることができるという、日常では起きない現象
仮説①で書いたように、情報量の削減が心地よさにつながるとしても、それだけではなぜボケが美しく見えるのかまでは説明できません。
人の目もレンズと同様に光を屈折させる仕組みを持ち、網膜にピントが合うことでものを見ています。しかし基本的に意識が向いたものに焦点を合わせているため、その周辺の焦点が合っていない領域は見ることができません。視界には入っているものの意識の外になっているわけです。ボケている領域を見ようとしても見ようとした瞬間にそこへ焦点を合わせてしまい、見ることができません。
また、瞳孔の開口はカメラのレンズに比べてかなり小さく、被写界深度も相対的に深くなります。そのため日常生活の中で、遠くの光源が大きくにじんで円形に見えるという経験は、強い近視の人が眼鏡を外したときや、夜間に遠くの街灯を見たときなど、限られた場面でしか起こりません。

つまり、とろけるような背景のボケや写真の中で点光源が大きな円としてボケている光景は、多くの人にとって普段の視覚経験からやや外れた見え方だということになります。見慣れない現象に対して人が注意を引かれたり、新奇なものとして好意的に受け取ったりする傾向があることを踏まえると、ボケの美しさの一部は、この日常からの逸脱そのものに起因している可能性があります。
仮説③:階調の連続性が、柔らかい素材の印象を呼び起こす
ボケというのは一つの点がぼやけて円になるだけでなく、実際には画面内の無数の点それぞれが錯乱円を作り、それらが互いに重なり合うことで背景全体を構成しています。この重なり合いの結果として生まれるのが、輝度や色が段差なく滑らかに移り変わっていく連続的な階調です。シャープ・テクスチャ・明瞭度の記事で扱ったガウシアンぼかしと同じ原理で、ぼかしという処理は本質的に急激な輝度変化(エッジ)を取り除き、滑らかな移り変わりだけを残す処理です。ボケのとろみとは、このエッジのない滑らかな階調変化そのものの見た目だと言えます。
ここで一つ、人が物の質感を目だけでどう判断しているか、ということについて考えてみようと思います。人は触れなくても、写真や映像を見ただけで、それが硬いものか柔らかいものか、乾いているか濡れているかをある程度判断できます。この判断の手がかりになっているのは、多くの場合、表面の輝度がどう変化しているかという情報ではないでしょうか。金属やガラスのような硬く滑らかな素材は、光源の反射がくっきりとしており、周囲との境界がはっきりした輝度変化を示します。一方、水面や肌、シルクのような柔らかい・半透明な素材は、光が表面や内部で拡散するため、輝度の変化が緩やかで境界のはっきりしない、なだらかな階調として現れます。

ボケが作る輝度の階調は、後者の性質と一致します。無数の錯乱円が重なり合うことで生まれる連続的で境界のない輝度変化は、柔らかく半透明な素材の輝度パターンと似ています。そのため、そこに実際には何も存在していないにもかかわらず、視覚がその輝度パターンを柔らかいもの、あるいは溶けているものとして処理し、とろけるような質感の印象を生んでいる可能性があります。

この仮説は、二線ボケと呼ばれる現象が敬遠される理由とも整合します。二線ボケは、球面収差の補正が不完全なレンズなどで、ボケた円の輪郭付近に輝度の段差やリング状の縁が生じる現象です。本来なら滑らかに減衰していくはずの階調の途中に、はっきりとした境界線が割り込んでくるわけです。滑らかであるはずの領域に鋭さの情報が混ざり込むことで、柔らかい素材としての印象が崩れ、ざわついた・落ち着かない印象として感じられているのではないかと考えられます。
仮説④:ボケが距離的・心理的近さの感覚を想起させる
とろみの正体が階調の連続性にあるとすれば、もう一つ別の角度から、ボケがなぜ心地よく感じられるのかを考えてみます。冒頭、被写体とカメラの距離が近いほど背景はボケやすくなると書きましたが、これがヒントになるのではないでしょうか。背景のボケについてより厳密に言うと、これは被写体とカメラの距離そのものというより、レンズと被写体の距離に対して被写体と背景がどれだけ離れているかという比率によって決まります。
この関係は、カメラだけでなく人の目にもそのまま当てはまります。人の目も、近くのものに焦点を合わせるときほど被写界深度は浅くなります。つまり強いボケという現象は、光学的には近いものを見ている状態と結びついていることになります。遠くの景色を眺めているときは被写界深度そのものが深いため、手前から奥までかなり広い範囲にピントが合った状態になります。強いボケが生まれるのは、多くの場合、近い距離にある何かに向き合っているときです。
近い距離で何かに向き合うという経験は、日常の中でも特別な状況で起きます。本を読む、手元の道具を扱う、誰かと顔を近づけて話す。こうした場面は単なる物理的な近さだけでなく、注意や関心が強く向けられている状況でもあります。近さと、注意が向けられているという感覚は、生活の中で強い意味を持つ組み合わせだと言えます。

写真の中で強いボケを見たとき、レンズの焦点距離や被写体との実際の距離を知らなくても、浅い被写界深度という見た目の情報だけから、近さの感覚を無意識に受け取っている可能性があります。この感覚が、注意や関心が向けられた対象を見ているという感覚と結びつき、被写体に視線が誘導されるとともに、その被写体が特別な対象であるという印象を与えている可能性があります。
まとめ
ボケというものが写真で生まれる理由を見つつ、その仕組みなども踏まえながらボケが美しいと言われる要因について考察をしてみました。ここでの考察はあくまで仮説ではありますが、なんとなく「美しい」といっているものがなぜ美しいのか、どうしてそれは生まれているのかを言語化することは最終的に自分の写真にどうその美しさを組み入れていくかという撮影技術や現像技術、そして写真表現に結びついていくはずです。
写真表現において当たり前とされているようなことについて今後も考察してみようと思うのでぜひ見ていただけると嬉しいです。

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